武蔵川 光偉
1971年生まれ、ハワイ出身。
現在は帰化し、本名は「武蔵丸 光洋(むさしまるこうよう)」。
人柄は、温厚で明るく、ユーモアのある性格で、日本を愛し、相撲を愛しています。
現役時代は、その迫力ある相撲で安定感のある突き押しを武器とし、幕内時代は対戦相手を土俵際まで吹っ飛ばす事もあるほどでした。
入門前に痛めた怪我を除けば、大きな怪我も無く、安定的な成績を残し、貴乃花、若乃花、曙など実力者がひしめく中、14年間で通算連続勝ち越し55場所(歴代1位)、外国出身力士最多優勝回数12回(引退当時。現在は白鵬が保持)などを記録しました。
引退後は、武蔵丸の名で五年間年寄を勤めた後、年寄振分、年寄大島を経て、現在は先代である第14代武蔵川親方より年寄名跡を引き継ぎ、第15代武蔵川を襲名。
先代武蔵川 晃偉より「偉」の文字を頂き、武蔵川 光偉と名乗る事になりました。
幼少期から入門まで
1971年5月2日、アメリカ合衆国ハワイ州オワフ島東サモアにてフィアマル・ペニタニ(Fiamalu Penitani)、後に遠く離れた日本の地で大横綱となる「武蔵丸」が生まれる。
当時のフィアマル少年について「子供の頃からとてもアカマイイ(ハワイ語で“物分りのいい子”の意)子だったよ」とは母・ニマラさん。
小学生からアメリカンフットボールを始め、ワイアナエ高校ではディフェンスとして活躍し、NFLのプロ選手になることを目標としていた。
アメリカンフットボール選手として大学からも勧誘されたが、経済的理由と勉強嫌いで進学を断念。
レスリングのグレコローマンスタイル(ヘビー級)でも活躍し、アメリカ本土の大学からも奨学金を附けて勧誘されたが、日本のレスリング金メダリストに武蔵川部屋を紹介され、勉強嫌いも手伝い、「自分の体を生かして家計を助けよう」と入門を決意して来日した。
また、父・マヌさんにも「神はすべてを平等に扱ってくださる。なにも心配することはないよ。フィア、自分の道を前向きに進みなさい」という言葉も来日の後押しとなった。
後の横綱武蔵丸、フィアマル・ペニタニ少年
青春をかけた高校時代
入門から幕内時代
平成元年(1989年)6月30日、成田空港に降り立った18歳になったばかりのフィアマル少年は、研修期間2ヶ月を経て武蔵川部屋に入門。
その研修期間2ヶ月の間に、相撲の習慣に慣れ、日本語を覚える。
そして同年9月場所、初土俵を踏む。
その後、類稀な素質と努力で困難を次々と打ち破り、一日の休場もなく、頂点に上り詰めていったのである。
負け越しは、幕下時代に1度経験しただけ。
四股名は本名のフィアマルのマルからとって「武蔵丸」となった。
初土俵を踏んで6場所目には早くも幕下に昇進。
その後、十両優勝2回を経て、平成3年の九州場所には新入幕を果たす。
横綱昇進…そして引退
新入幕後いきなりの敢闘賞を受賞。
その後はどんどん番付を上げていき、平成4年夏場所には早くも小結昇進。
同秋場所には関脇に昇進。そして、22歳8ヶ月の平成6年初場所後に大関昇進。
大関推挙伝達式での口上は
「日本の心を持って相撲道に精進致します」。
同時に大関に昇進した貴ノ浪とは終生変わらぬよきライバルとなり、幕内対戦回数58回は大相撲史上1位の記録である 。
大関時代の平成6年名古屋場所に念願の初優勝を果たす。平成8年には日本に帰化し、本名も「武蔵丸光洋」と改めた。
平成11年名古屋場所にて、5度目の優勝を果たし、通産3回目の綱取で横綱昇進となった。
大関から横綱になるまで予想以上の道のりを要した(スロー記録)が、ジャパニーズ・ドリームを実現させた男に懸けられる期待は大きかった。
また武蔵丸にもこれに応えて、長く横綱の地位と名誉を守り抜き、協会の看板としての役目を見事にはたした。
そして、平成15年九州場所7日目土佐ノ海に破れ、翌日引退記者会見を行った。
引退の直接の引き金となった左手の痛みは、高校時代アメリカンフットボールで痛めた首から来ているものだということを初めて明かした。
お礼奉公として加わった、
春巡業の豪華4ショット。
初めて200kgの大台超え。
本名も「武蔵丸光洋」へ。
部屋設立と後進指導
引退後は、武蔵丸の名で五年間年寄を勤めた後、年寄振分、年寄大島を経て、先代である第14代武蔵川親方より年寄名跡を引き継ぎ、平成25年2月、第15代武蔵川を襲名。
年寄名称は、先代武蔵川 晃偉より「偉」の文字を頂き、武蔵川 光偉と名乗る事となる。
そして同年4月1日、内弟子の力士2名と床山1名を連れ、武蔵川部屋を独立。(平成22年に先代が藤島親方へ部屋を継承し藤島部屋となっていたため、事実上の再興)
厳しくも決して感情的にはならないその指導法で、後進の指導にあたっている。
またプライベートでは、平成20年4月におかみである雅美夫人と結婚。平成26年6月には、第一子となる長男ジョーイも誕生。
また師匠業以外にも、日本相撲協会の委員や、新聞社の相撲評論家としてなど、世界に相撲の魅力を広めるべく精力的な活動を続けている。