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師匠・武蔵川光偉
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武蔵川 光偉 (むさしがわ みつひで)
氏名 | 武蔵丸 光洋(むさしまる こうよう) | |
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年寄名 | 武蔵川 光偉 (むさしがわ みつひで) | |
愛称(あだな) | マル親方 | |
家族構成 | 既婚 おかみ=雅美 、長男 | |
生年月日 | 昭和46年(1971年)5月2日 | |
最高位 | 横綱 | |
初土俵 | 平成元年(1989年)9月場所 | |
血液型 | A型 | |
星座 | 牡牛座 | |
出身地 | 米国ハワイ州オアフ島ワイアナエ (生まれは米国領サモア) |
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出身校 | ハワイ ワイアナエ高校 | |
スポーツ歴 | アメリカンフットボール | |
身長 | 192cm (現役時) | |
体重 | 237kg (現役時) | |
得意手 | 突き、押し、右四つ、寄り | |
幕内成績 | 706勝267敗115休 | |
幕内在位 | 73場所 | |
優勝 | 12回 | |
三賞 | 殊勲賞1、敢闘賞1、技能賞2 | |
座右の銘 | 我慢して、努力すれば、人間絶対に成功できる。 | |
尊敬する人 | 師匠 (先代武蔵川親方 元横綱三重ノ海)、父 | |
皆さんへのメッセージ | 武蔵川部屋をよろしくお願い致します。 |
幼少期から武蔵川部屋入門
1971年5月2日、アメリカ合衆国ハワイ州オワフ島東サモアにてフィアマル・ペニタニ(Fiamalu Penitani)、後に遠く離れた日本の地で大横綱となる「武蔵丸」が生まれる。
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入門当時から幕内時代
平成元年(1989年)6月30日、成田空港に降り立った18歳になったばかりのフィアマル少年は、研修期間2ヶ月を経て武蔵川部屋に入門。そのテスト期間2ヶ月の間に相撲の習慣に慣れ、日本語を覚えた。そして、同年9月場所初土俵を踏んだ。その後、類稀な素質と努力で困難を次々と打ち破り、一日の休場もなく、頂点に上り詰めていったのである。負け越しは、幕下時代に1度経験しただけ。四股名は本名のフィアマルのマルからとって「武蔵丸」となった。初土俵を踏んで6場所目には早くも幕下に昇進。その後、十両優勝2回を経て、平成3年の九州場所には新入幕を果たす。
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大関~横綱昇進・・そして引退
新入幕後いきなりの敢闘賞を受賞。 その後はどんどん番付を上げていき、平成4年夏場所には早くも小結昇進。同秋場所には関脇に昇進。そして、22歳8ヶ月の平成6年初場所後に大関昇進。 大関推挙伝達式での口上は「日本の心を持って相撲道に精進致します」。 同時に大関に昇進した貴ノ浪とは終生変わらぬよきライバルとなり、幕内対戦回数58回は大相撲史上1位の記録である 。大関時代の平成6年名古屋場所に念願の初優勝を果たす。平成8年には日本に帰化し、本名も「武蔵丸光洋」と改めた。 平成11年名古屋場所にて、5度目の優勝を果たし、通産3回目の綱取で横綱昇進となった。大関から横綱になるまで予想以上の道のりを要した(スロー記録)が、ジャパニーズ・ドリームを実現させた男に懸けられる期待は大きかった。また武蔵丸にもこれに応えて、長く横綱の地位と名誉を守り抜き、協会の看板としての役目を見事にはたした。そして、平成15年九州場所7日目土佐ノ海に破れ、翌日引退記者会見を行った。引退の直接の引き金となった左手の痛みは、高校時代アメリカンフットボールで痛めた首から来ているものだということを初めて明かした。
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